子育て研究所

躾(しつけ)、教育、育児に悩む親や教師のための学習サイト - 新しい子育て法を提案します

Lesson 3-2 子供と対等な関係を築きましょう

 前頁の内容は覚えていますか? 従来の縦関係の子育て法に代わる、新しい子育てが必要だということでしたね。その新しい子育てというのは、伝統的な「子供は親の言う通りにしなさい」、「教師の指示に従いなさい」という、上からものを言うスタイルではなく、対等な立場から指導していくというスタイルでなくてはなりません。まだ、「大人と子供が対等だなんて、そんなバカな」とか「教える、しつけるということは上から下に向かってすることだ、対等な関係から教えることなどできない」と感じておられる方も多いと思います。その気持ちは分からないではありませんが、もう少し先までお話を聞いていただいて、それで判断していただいても遅くないと思いますので、もう少しお付き合いください。もしかしたら、あなたが思っている「対等」という言葉の意味と、私が使うその言葉の意味が違っているだけかもしれませんし....。

 こういう説明的なことは文章を難解にしますし、子育ての本題から逸脱するので、あまり書きたくないのですが、説明上仕方ないので、「平等」と「対等」の言葉的な意味について、簡単に触れておきます。調べてみますと、平等とは「差別がなく、すべて同じであること」と言われます。また、対等とは「二つの物事の間に優劣、高下のないこと。互角」ということのようです。
 さて、大人と子供が対等であるということを説明する前に、大人と大人の平等について、考えてみたいと思います。まず、男女の平等、対等について考えてみましょう。例えば、夫がこのように言ったらどうでしょうか。「お前は女なんだから、炊事、洗濯をしろ!」 腹が立ちますよね。では、「俺は仕事で帰るのが毎日遅いけど、お前は専業主婦で家にいるんだから、特別の理由がない限りは、炊事、洗濯をやってちょうだい」と言うとどうでしょうか。それの方がまだ納得しやすいですよね。これは語調だけの問題でしょうか。「お前は女なんだから」というのが、引っかかりますよね。「お前は専業主婦なんだから」と言われた方がまだ理由としては納得しやすいですよね。男女が対等であるということは、女性解放運動の先頭に立つようなタイプの人にとっては、理想とすることかもしれません。しかし、対等ということは決して楽なことばかりではないのです。「あなたは男なんだから、外で働いてきて、給料を家に入れなさいよ」ということは建前上許されないのです。「あなたは私よりも外で働くことに向いていると思うので、あなたは外で働いてきて、家に給料をいれてくださいませんか? その代わりに、私はあなたよりも家事に向いていると思うので、家で家事をいたします」ということで、お互いが納得し、そのような形態をとるというのが、本当の対等な関係ではないでしょうか。ですから、逆に、男が主夫をし、女が外に出て働くということも全く問題がないわけです。

 男女は対等であるというのは、納得いただける方が多いと思いますが、会社の上司と部下の関係はどうでしょうか。仕事上では、上司が命令する立場であり、部下はそれに従う立場ですから、人間としては平等でも、役割としては対等ではありませんよね。しかし、それは仕事上のことであり、それは単に役割が違うだけで、人間としては平等であるはずです。仕事上は上司が部下に命令するのは当然のことです。上司は部下に比べ、より多くの責任があるので、より多くの決定権があるのです。命令を与える側と与えられる側との関係を、上下関係だと勘違いしてはいけないと思います。それは(身分的意味合いでの)上下関係ではなく、役割の違いです。  逆に言えば、仕事に関すること以外で、上司が部下に命令をするのはおかしいし、部下はそれを断る権利があると思っていますし、断ったからという理由で不利益を被ってはならないと思います。もしも上司がそれをするならば、それこそ公私混同ではないでしょうか? でも、社会の実態はそうではないでしょう。接待のゴルフにも付き合わなければならないのが現状でしょう。わかります。しかし、そういった状況(接待しなければならない状況)を不満に思うのは、本来的でないことを要求されるから不満に思うのではないですか? 上司から仕事を頼まれて不満に思うことは少ないでしょう。心は正直なのです。ですから、最近の若い人の中には、飲み会などの付き合いはしないという人も増えているのです。それは、ごく自然なことだと思います。もちろん、職場の人間関係を良くする事は必要だと思いますし、そのための飲み会は大いに結構だと思います。しかし、それに参加しない人を、その理由で疎ましく思ったりするのは筋違いだとは思いませんか? 特に、日本人は同じ好みを持ち、同じような考えや意見を持つ人とグループになりたがります。日本人が「ノー」と言いにくいのは、相手と意見が違うと仲良くなれないんじゃないかと思って、遠慮して、自分の意見をはっきりと表現しないのではないかと思います。私の身近な韓国人女性は、はっきりと意見や好き嫌いを言います。極端に言えば、日本人には次のような傾向があります。「私、みかんより、りんごの方が好きなの」と相手から言われれば、実際はそうでなくても、「私もそうよ」と言って、友達関係を維持するような傾向があると思います。それは若い人を見ても、そのように感じます。例えば、「これって、可愛くない?」というような表現をいわゆるコギャルたちがするのも、はっきりと断言してしまって、相手の好き嫌いの感覚と合わないことを恐れてのことではないかと思います。韓国人流だと、「あなたはりんごの方が好き、私はみかんの方が好き、でもお互いに仲良くなるにはそれは全く関係の無いこと」という考えなのでしょう。むしろ、それが世界のスタンダードですし、私もその方が自然だと思います。もちろん、そういう私も日本人なので、皆さんと同じような日本人的な傾向はあると思います。しかし、私はそれに気づいているので、議論をしていたも、「ああ、この人は私の「意見」に反対しているんだ」と冷静に思えるのですが、中には自分と違う意見が出ようものなら、「この人は「私」を否定している」と思って、真っ赤になって怒る人もしばしば見られます。インターネットの掲示板などではありがちな光景です。この説明で前の課で述べた、子供を叱るのなら、行為者と行為を分けて叱りましょうという提案を思い浮かべた人は、応用力がある方だと思います。

 男も女も、お金のある人もない人も、都市に住んでいる人も田舎に住んでいる人も、日本人も外国人も、ブランドの服を着ている人もバーゲンで買った服を着ている人も、表舞台に立つ人も陰で支える人も、立派なマイホームを建てた人も借家の人も、大学院を卒業した人も義務教育しか受けていない人も、皆、平等ですよね。どちらの人の生命も平等に価値があります。そして、対等です。対等だから、そのことによって、行列の並び順が有利だとか、レストランで食事が運ばれてくる順序が早いということがないのです。(まあ、それが気まずい場合も確かにありますが....。)
 能力の差で昇進が決まるのは、機会が平等に与えられているということですが、出身校によって、キャリア、ノンキャリアと決められて、機会が平等に与えられないのは、不平等ですよね。ですから、そういった体質には世間の批判が集中するのです。大学が本当に人を育てる場であるのならば、同じスタートラインから競争しても、大卒のキャリアと言われる人の方がより良い仕事ができる筈ですし、それで昇進が決まるはずです。しかし、実際には内容には自信がなく、出身校というブランドにしか自信がないために、彼らは平等なスタートラインに立ちたくないのでしょう。

 話を戻しましょう。上司と部下は仕事上は対等ではありませんでした。子育ての現場はどうかといいますと、従来の考えでは、会社の上司と部下のように、親が命令し、子供が命令される立場、従う立場であると考えられていました。しかし、これから私たちがやろうとする新しい子育ては、親も子も対等であるという考えから出発するものです。もちろん、教師と生徒も同様で、数学、英語といった授業の現場では、指示を出す側と出される側という立場の違いがありますが、根底には対等であるという価値観からの教育が望ましいと考えています。それは、その結びつきの根底に愛が存在し、愛情によって結びついているものだからです。特に親子はそうです。
 具体的な事例を出さないと、そういった方法で本当に躾や教育ができるのかと言われそうですが、後半になりますと、そういった考えに基づく教育の事例をたくさんお見せいたします。ですから、それまでは退屈でしょうが、根底となる理論的なことの説明が続きますがお許しください。その2種類の子育てのニュアンス的な違いとしては、従来の子育てが上から「指導する」といったイメージの教育であるのに対して、ここで紹介する子育ては、横の関係から「援助する」といった雰囲気の子育てということになります。
 念のため、誤解のないように補足しますと、平等と無差別は違いますよ。無差別はむしろ不平等です。個性が違うのに同じ服を着せ、能力が違うのに同じ授業を受けさせるというのは無差別の部類であると考えます。